生涯
01.23.09
世阿弥が生まれたとき父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。世阿弥の母については、近年発見された文書により「播磨国揖保庄の永富左衛門六郎の娘」という説もあるが不詳。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演していた。 1374年または1375年、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。 当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。 義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。 義持が没し足利義教の代になると弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用。仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。 1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死してしまう。世阿弥自身も1434年に佐渡国に流された。1436年(永享8年)には『金島書』を著すが、その後の消息はよく分かっていない。晩年には大和国の禅寺・補巌寺に帰依していており、彼と妻の名を記した納帳が発見されている(香西精『世阿弥新考』)。後に帰洛したとも伝えられる。「観世小次郎画像賛」によれば嘉吉三年(1443年)に没したことになっている。
Comments (64) Full article